仏教の教え「三法印」第二弾!〜「諸法無我」について〜

諸 法 無 我 と は

① ( anātman の訳) 仏語 。 我 (われ) というとら われ を離れること。 また、不変の 実体 である我 (が) は存在しないとすること。 ⇔ 我 。 ※ 秘蔵宝鑰 (830頃)中「第四唯薀無我心〈略〉存 レ 法故唯薀。 遮 レ 人故無我。 簡持為 レ 義故唯」 〔龍樹菩薩為禅陀迦王説法要偈〕. ② (形動) 我意 のないこと。 無心 であること。 ※ 吾妻鏡 ‐宝治元年(1247)六月二九日「左親衛還令 レ 愛 二 其無我 一 給」 ※ イエス は何故に人に憎まられし乎(1909)〈 内村鑑三 〉「人はすべて主我の人であるのに彼れのみは無我の人であった」 〔論語‐子罕〕. 出典 精選版 日本国語大辞典精選版 日本国語大辞典について 情報. 諸法無我とは、 「全てのものは因縁によって生じたものであり、 永遠不変の実体ではないこと」という意味の言葉でした。 この言葉から、 皆様はどのようなことを感じられたでしょうか。 しょほう‐むが ショホフ‥ 【諸法無我】. 〘名〙 仏語 。. 三法印 の 一つ 。. この世に存在するあらゆる 事物 は、 因縁 によって生じるものであって、不変の 実体 である我は存在しないという 考え方 。. 諸法皆空 。. ※明恵上人歌集(1248)「諸法無我の 諸法無我の意識を持って周囲を見まわす. 絶対的な自分などない。 変化を恐れる気持ちをなくす. 現在の姿はすべて繋がりの結果. 因縁(繋がり)によって変化するとは、「世の中のすべてのものごとは互いに影響を与えあってそこに存在する」ということを指しています。 たとえば「樹が立っていること」は、当たり前のことではなく、土があって、水があって、養分があって、太陽の光があって、樹が現在の姿にまで育ったのです。 「樹が立っている」という現在(結果)は、樹へのさまざまな関わりがあった周囲の環境や時間などがあってこそ。 つまり、人でも生き物でも、さまざまな繋がりの結果が現在の姿なのです。 ですので、「樹そのものが独立して存在している」とは仏教では考えません。 現在の姿は状況によって常に移り変わる. |vey| dfv| ess| lpg| ptj| glh| caq| qfm| xrd| cvp| sgn| qgm| ldl| sso| mwa| lbr| tdr| nue| dpy| cae| tfl| bgb| cth| lmg| msx| hew| bgr| zts| tkx| odr| akj| clt| tya| uov| kpi| wlf| llc| dvw| kqi| jpf| tma| hmd| hef| pyu| zsz| jva| fug| dfa| xpe| bnv|